『すずめの戸締まり』の予習と復習。鑑賞する前に押さえておきたいポイントと鑑賞後のネタバレ考察

2022/11/15

 2022年11月11日、新海誠監督の最新作『すずめの戸締まり』が公開された。前作『天気の子』から、実に3年と四半期ぶりの作品である。このタイミングで監督が何を形にし、何を伝えようとしたのか、できる限り言語化を試みる。

 本作は『天気の子』のレビューに記したような、確固たる結論には至らない。「いい話」ではあるが、そんなに「単純な話」ではないし、評価も加点法と減点法でかなり揺れる。それでも、相当な覚悟で作られた挑戦的な内容であることが分かった。そのため、鑑賞する前の予習編と鑑賞後の復習編に分けて情報を整理してみたいと思う。

 本編を未視聴の方は予習編だけでも読んでほしい。何の事前情報も入れずに素の状態で観たい場合は、ここで閉じてしまって構わない。

予習編『すずめの戸締まり』を鑑賞する前に押さえておきたいポイント

 本作品は、何も知らない状態で鑑賞しても楽しめる内容だが、事前にいくつかのポイントを押さえておくと、より理解が深まる作品となっている。特に『君の名は。』や『天気の子』と同じような視聴体験を期待していると、場合によっては受け入れがたい印象を抱くかもしれない。

 まず初めに、本作は2011年3月11日に発生した東日本大震災を直接描写している。あれから10年以上が経過しているが、それでも、見覚えのある光景がスクリーンに映し出された瞬間は、少なからず衝撃を覚えた。これは物語のテーマとも密接に関わっているため、被災者や当時の状況にトラウマを持っている人は、少しだけ観る前に覚悟しておく必要がある。

 次に、本作は「災い」を物語の中心に置いているため、『君の名は。』と『天気の子』に続く三部作と言うことができる。しかし、監督のフィルモグラフィーに照らし合わせれば、むしろその質感や構成は『星を追う子ども』に近い。だから、まだ未視聴の場合は『星を追う子ども』のアップデートを想定し、先に視聴しておくことを推奨する。少なくとも、公開日とあらすじぐらいはネットで調べられる。その方が本作を感慨深く観られることだろう。

 そして、本作品をより深く広く楽しみたい場合は、参考文献としてスタジオジブリ版のアニメーション『魔女の宅急便』と、村上春樹の短編小説『かえるくん、東京を救う』に目を通しておくと見通しが良くなる。その理由は、両作品を知った上で『すずめの戸締まり』を観た人ならば、そういうことかと納得するはずだ。

 前知識はこれぐらいで十分だ、と個人的には思う。もう一度言うが、何も知らなくても普通に楽しめる。ただし、新海監督の作品の中で『君の名は。』や『天気の子』しか観たことがない場合は、その先入観を持たずに鑑賞した方が素直に受け入れられる。

 以降の内容はネタバレを含む。本編を鑑賞してない方はここまで。

復習編『すずめの戸締まり』を鑑賞後に振り返るあの場面とその意味

 本作品を劇場で鑑賞すると、数量限定で先着順に新海監督のインタビューや企画書の抜粋が掲載されている小冊子を貰える。そこに記されている内容の冒頭は以下の通り。

本作は、過疎化や災害により増え続ける日本の廃墟を舞台に、喪失の記憶を忘却した少女と、椅子に閉じ込められてしまった青年のそれぞれの開放と成長の旅を描く、劇場用アニメーションである。

――『すずめの戸締まり』企画書前文より

 そして、この物語には三つの柱がある、と明示されている。

1つは、2011年の震災で母を亡くしたヒロイン・スズメの成長物語。
2つめは、椅子にされてしまった草太と、彼を元の姿に戻そうとするスズメとの、コミカルで切実なラブストーリー。
3つめは、日本各地で起きる災害(震災)を、『後ろ戸』というドアを閉めることで防いでいく「戸締まり」の物語。

――『すずめの戸締まり』企画書前文より

 これら3つの要素を、九州から東京、東北へと旅を続けるロードムービーとして描いていくというのだ。

 企画内容としては、震災、災害、過疎化などの言葉が並び、後ろ暗いイメージを抱くが、本編は旅と冒険を中心に展開するため深刻な描写は少ない。しかも、登場人物同士のやりとりは所々でコメディタッチになるし、厄災と対峙する場面ではファンタジー要素の強い演出がなされる。

 そのため、場合によっては荒唐無稽に思えたり、没入感が失われてしまう瞬間がある。それが何故そのようになったのか、放置したままでは本質を見失う。それを整理し、考察したならば、もう一度観たいと思えるかもしれない。

『すずめの戸締まり』は何を描いているのか

『すずめの戸締まり』の主人公は、宮崎県の港町に暮らす普通の女子高生、岩戸鈴芽(いわとすずめ)である。彼女は、2011年の震災で母親を亡くしたため祖母と二人暮らしをしていた。ある朝、通学途中で偶然通りかかった旅人の男性と声を交わす。その事がきっかけとなって、ある大きな事象に巻き込まれていく。

 本作で描かれるのは、鈴芽という個人が日常から非日常へと出るきっかけを得て、過去を受け入れ、成長する物語である。前作『天気の子』では、どこかにいる現代の若者を描いていたし、『君の名は。』では物語内の「君と僕」を描いていた。

 それと比較すると、今回はカメラの距離感が主人公に「近い」。これは物理的な距離ではなく、物語の語られ方の問題だ。『天気の子』では帆高と陽菜を同列に扱うことができた。『君の名は。』に至っては瀧と三葉の関係性が中心だった。

 しかし、今回も同じような姿勢で鑑賞すると、物語の筋が追いづらくなる。草太は誰なのか、閉じ師という重要な役目が、なぜ組織ではなく個人に委ねられているのか。草太を鈴芽と同列に扱おうとすると、所々で歯車が噛み合わなくなる。だから一旦、草太は外部から来た登場人物として扱って、鈴芽を中心に考えた方が受け入れやすい。

 本編は鈴芽の一人称の視点で始まる。この視点を最後まで維持した方が納得できる。草太の容姿は鈴芽が見た一人の男性の印象だし、途中で彼がイスや要石になってしまうのは、鈴芽の心情に対する枷を思わせる。後ろ戸から溢れてくるミミズの禍々しさは、鈴芽の感性がそうさせたのだろう。だから、視聴者自らの価値観で場面の良し悪しを判断するのではなく、鈴芽の喜怒哀楽に身を任せてしまった方が得策だ。それこそ一人称の小説を読んでいるかのように。

 表現の部分に注目すると、アニメーションで女子高生を描写する時にありがちなフェティシズムは完全に排除されている。それは彼女自身に寄り添っているからであり、鈴芽の描かれ方は自然体で爽やかだ。

 このように整理すると、確かに震災やミミズといった大きな装置は重要だが、この作品が描き出そうとしているのは、あくまで震災を体験した個人が、当時と向き合い、現実を見直すきっかけを得る小さなエピソードである。

一番注目すべきはアバンタイトル

『すずめの戸締まり』で一番印象深いのは、冒頭から十数分のアバンタイトルだ。とにかくタイトルが映し出されるまでのシークエンスが秀逸で、テンポ良く一気に畳み掛ける。

 冒頭は一人称視点で始まる。どこかの地を彷徨う少女の息切れがしばらく続く。これは恐らく誰かの幼少期の描写だということが分かる。少女は「お母さん、お母さん」と叫びながら倒壊した家屋を渡り歩く。

 満天の星空は神秘的だ。その下に広がる草むらには倒壊した家屋や瓦礫が散在している。そこに、どこかで見たことのある光景が差し込まれる。半壊した建物の上に漂着した小型船だ。この時点で、かの震災によって津波に呑まれた現場だということが判明する。それと同時に、地面が草で覆われていることから、現実の時間軸とは乖離した空間であるということが示唆される。

 途方に暮れて泣き崩れる少女の元へ、謎の人物が近づく。その人物の周りには二匹の蝶が舞っている。これは夢だ。物語の文法において、蝶は夢や虚構を象徴する存在であるため、このような場面で記号として描写されることが少なくない。

 鈴芽が目覚める場面で、部屋の中にもかかわらず蝶が舞っている。これに驚かされた。通常、物語上の蝶は夢や虚構の側に現れる。例えば、その状況が現実だと思い込んでいる人物の元へ現れ、それが現実ではないかもしれないと暗示する役目を担う。あるいは、画面に映し出されている映像が、今は現実かどうか分かりませんよ、と観客に気づかせるために舞う。いわゆる「胡蝶の夢」というやつだ。

 それが現実の方に描かれているのだ。二匹の蝶は鈴芽が記憶の奥底で忘れてしまった母親と自分との関係性を象徴しているようでもあるし、現代の日本人が生きる日常こそが虚構じみているという比喩にも見える。

 私たちは、生活圏の外側で震災が発生しても、外国で戦争が行われていても、どこか夢見ごこちの、ふわふわした時間を生きている。何となく続いている平和や日常というものが、薄い膜となって日本全土を覆っている。それが東日本大震災以前の一般的な平和ボケした日本人の感覚だ。

 しかし、今は震災以後の時代である。非日常はとっくに日常を塗り替えたはずだし、戦争やパンデミックは現在進行系である。それなのに、厄災の記憶は薄れ、あの危機感や喪失感は、いつの間にか古傷のように見えなくなりつつある。

 だから、夢の中に出てきた終末的な風景こそが現実的であり、厄災や生と死を忘却させる人工的な現実こそが虚構的なのだ。この反転がここで暗示される。この時点で、鈴芽はまだ夢の中の住人なのだ。

 制服に着替えて朝食をとる場面。キッチンに立つ女性に対して、鈴芽は「環(たまき)さん」と名前で返す。このことから、二人が単純な親子の関係ではないということが伝わる。

 環が鈴芽の弁当箱の蓋を閉める。カットが切り替わり家の扉を施錠する。そして鈴芽が自転車の鍵を開ける。この鍵を〈開ける/閉める〉という描写は、作中で何度もクローズアップされる。物語で重要な要素がここで印象ずけられる。

 自転車を漕ぎ出した鈴芽が坂道を下る。偶然通りかかった謎の男に「キレイ」という印象を抱く。夢の中で見た人物と重ねたのだろうが、これはミスリードであることが後に明かされる。

 鈴芽は、この辺りに廃墟はないかと聞かれた草太の事が気になって、通学路を引き返す。案内したはずの廃墟に男の姿はなかった。その代わり、見慣れない扉を発見し、それに干渉してしまう。

 これにより、鈴芽は夢から覚めて現実が見えるようになった。言い方を変えると、現実と向き合う「目」を手に入れることとなった。以降、超常的な現象を目撃する際に、彼女の瞳には紫色の虹彩が宿る。

 確かに要石を引き抜いてしまったのは鈴芽だが、最初から扉は薄く開いていた。そのため、ミミズが漏れ出してくるのは時間の問題だったのだろう。だが彼女は当事者になってしまった。当事者に「戻ってしまった」と言い換えることも出来る。

 学校に戻った彼女は地震警報を聞いた時に、他の生徒と同じように振る舞うことができなかった。一連の流れを汲み取ると、ミミズが見えてしまう能力は当事者にしか分からない危機感の具現化とも言える。

 警報に怯える生徒もいるが、悪態をついたり、気づかずバスケットボールに熱中する生徒もいる。そんな中で、地震の予兆がはっきりと画面に映るのは、鈴芽の視界を借りて物語を展開しているからであり、震災の当事者として彼女が恐怖をあのように捉えているからだ。

 廃墟に戻り、草太と再開した鈴芽は、負傷した彼に手を貸して、どうにか扉を閉じる。この非現実を封じるために扉を閉めるという行為が、最後に鈴芽の行動につながる伏線となる。

 そしてタイトル。

 見事。アバンタイトルの流れは過去最高峰と言っていいだろう。今回はこれをやります、という宣言がここできっちりとなされている。冒頭12分の映像は無料で公開されているから、気になったら見返してみるのもいいだろう。

なぜ地震がミミズとして描かれるのか

 古来より、大量のミミズが地面に現れると地震の前兆かもしれないと言われる。動物が普段と違う行動を見せる場合もそうだ。

 ミミズは地面の中に棲む者、蠕動して地中を這う者だから、地震の具現化としてふさわしい。プレートテクトニクス的にも、岩盤が衝突して断層にエネルギーが溜まり、それが放出される時に発生する振動を地震と呼ぶ。

 だから、ミミズは徐々に巨大化して、ある瞬間に倒れ込み街を壊す。それが化け物じみて見えるのは、鈴芽の主観を反映しているからだ。草太は鈴芽の世界観の外部に存在しているため、彼にとっては別の見え方があるかもしれない。

 予習編で紹介した村上春樹の短編小説『かえるくん、東京を救う』にも、地震を起こす元凶として「みみずくん」が登場する。かえるくんは地震から東京を救うためにみみずくんと戦おうとする。

 これはあくまでモチーフの類似性に過ぎないが、かえるくんの言動と草太の立ち振舞にも類似性を見出すことができる。だから、表層はともかく深層で語ろうとしていることは一緒だ。その共通点については、各個人で判断して欲しい。

鍵を〈開ける/閉める〉シーンは何を意味しているのか

 作中の中で、鍵を〈開ける/閉める〉シーンは特に印象的に描かれる。手元をクローズアップする形で、リズミカルに何度も登場する。

 この鍵を〈開ける/閉める〉という行為は、物事の二面性の境界だ。「いってきます」と「ただいま」のあいだ。日常と非日常を隔てるもの。そして何かを終わらせ新しく始めるための区切り。

 新海誠はこれを描き出すことによって、ただの日常の動作でしかない「戸締まり」に特別な意味を与えてしまった。我々は、日々の暮らしの中で何度も何度も、扉や鍵を開け締めする。それが全人類の営みの中で無限に繰り返され、累積し、そして忘れ去られていくのだ。

 鍵を〈開ける/閉める〉という行為の前後には、人それぞれのエピソードが刻まれている。鈴芽が「後ろ戸」の中から聞いた声がそれだ。だから、何かを断ち切るように思える〈開ける/閉める〉という行為には、同時にそれらをつなぐという意味も含まれているのだ。

 最後に鈴芽は「行ってきます」と言う。何かを終わらせるために扉を閉めるという行為の意味が反転し、夢と現実の二面性もここで反転する。

『星を追う子ども』との関係性

 新海監督はインタビューの中で、震災が起こった当日は『星を追う子ども』の制作に追われていたと語っている。2011年5月7日に公開された作品だ。震災から二ヶ月弱しか経っていない。

 当時の事象を物語の中心に据えて作られた作品が、同年に公開された作風へと立ち戻ろうとするのは、何か理由がありそうだ。個人的に『すずめの戸締まり』は『シン・星を追う子ども』ではないかと妄想する。

 新海監督の作品では、何かを失った喪失感や、何かが失われそうになった時に取り戻そうとする焦燥感が多く描かれる。『星を追う子ども』も、主人公の明日菜は父親を失っており、居場所がなく、ここではないどこかへ行こうとしている。

 ただ、『星を追う子ども』の企画や脚本の時点で震災は発生していない。だから、この時点で描かれる喪失や焦燥感は、あくまで創作によるものだ。

 震災の影響を受けて作られた作品といえば『君の名は。』と『天気の子』だ。新海監督は、どちらかの作品で東日本大震災を直接扱おうとしたのではないか。ただ、自身の中で踏ん切りがつかないか、あるいは企画段階で保留とされたか、あるいは世間の中で風化しきっていないため見送ったか、理由は色々とあるだろうが、結果的に時期尚早と判断した。だから直接的な描写は避けて、あくまで間接的なモチーフにとどめた。

 そして満を持して制作されたのが、今回の作品だ。あらゆる事件は十年で時効を迎える。もちろん別の基準はあるし、人によっては永遠に忌避されるものだってある。一方で、十年という歳月は一種の節目にあたる。だから監督の中で踏ん切りがついたか、成熟した何かの手応えがあったか、あるいは外部的な反発が少なくなったからなのか、ようやく震災を直接描写する覚悟を決めた。

 当時の事象と向き合うにあたって、その時代に自分が携わっていた仕事を見つめ直した結果、そこから感じたものが新作に反映されていてもおかしくはない。第一印象として、画のルックや色彩設計にそれを見た人も少なくないだろう。

『星を追う子ども』は、設定と人間関係が膨らみすぎて衒学的にこじれた方向に出力されてしまった作品に見えるが、深い部分で言わんとしていることは共通している。そこから無駄な要素を削ぎ落とし、登場人物や視点を整理したからこそ、『すずめの戸締まり』は身体性に溢れる方向に出力された。

 その手続きは、東日本大震災という実体験を通してでなければ不可能だっただろう。あれほどの規模の災害を、同じ時間に日本全体で「感じた」瞬間は、これまでになかったからだ。

それ以外の要因とまとめ

 要石とダイジンの存在は何なのか。地震という巨大な自然現象を人為的に封じることなどできるのか。説明しようと思えば、いくらでも設定を掘り返すこともできるだろうが、ここでは蛇足に思える。もちろん、場面場面にちりばめられた描写の意味を考えることは有用だが、それではもっと大事な部分を見落としてしまう気がする。

 この作品で重要なのは、場所を悼み、思いを馳せることである。そこに生きた人々、そこにあった生活、そこで交わされた言葉。本作には悪人や倒すべき相手が登場しない。その代わり人智を超えた事象が描かれる。

 ただそこにある場所――そこに人間が住み着いているのだ。だから使い終わったら「お返しします」と言わなければいけない。これは無かったことにするという意味ではなく、その想いも一緒に「向こうの世界」へお返しするのだ。

 だから、幼少の鈴芽が夢の中で現在の鈴芽に出会う場面は、SF的なタイムリープではなく、鈴芽の内面世界に起きた精神的な出来事を描いている。神道やアニミズムを設定として用いるのは、物理的な現象ではなく神秘的な体験を語るためだ。

 しつこいようだが、個人的に本作は鈴芽の一人称視点に近い映画だと思っている。文学では、一人称の文体で語られる内容は全て事実である。語り手の世界では物事がそのように見え、そのように聞こえ、そのように体験できるからだ。真実はどうあれ事実は書かれたまま読むしかない。

 まとめると、『すずめの戸締まり』は一人の震災を経験した若者の小さなエピソードだった。世界を救うとか、誰かとの関係性といったものに着目するのではなく、あくまで鈴芽の行動が次の展開を生み、どのような結果につながるのかを見届ける内容である。

 私たちは「戸締まり」に何を見出すだろう。劇場を出た時に、その日常が特別に思える。そんな体験ができる映画だった。