『カメラを止めるな!』のここが凄い!そして似たようなおすすめ映画ある?という時に観る3本

2018/08/14
『カメラを止めるな!』

 公開直後から口コミで話題の映画『カメラを止めるな!』の勢いが止まらない。

 この映画は感想を伝えようとしても全てがネタバレになってしまうので、事前に説明することが難しい。そのため、人に推薦する時は「とにかく面白いから見て!」といった雑な言い回しにならざるおえない。そして、人に薦められてこの映画を観た人ならば、また誰かにそのことを話したくて仕方がなくなるのだ。

 この体験は、私にある監督の作品を連想させた――内田けんじ監督だ。

 内田監督は、「内田けんじが監督した」というだけで半分ネタバレになるほどの強烈な作品を残している。恐らく、『カメラを止めるな!』を面白いと思った人は、内田監督の作品を気に入ると思うし、内田監督の作品が好きな人は、『カメラを止めるな!』を面白いと思うはずだ。どちらも事前情報一切なしで観るのがベストである。

『カメラを止めるな!』と似たような映画を探しているのなら、内田けんじ監督の『運命じゃない人』『アフタースクール』『鍵泥棒のメソッド』を順番に見ることをお薦めする(ところで彼のフィルモグラフィーが2012年以降更新されていないのが惜しまれる)

 じゃあ『カメラを止めるな!』の何が凄いの? という部分を続けて書いていく。以降は完全にネタバレになるので、まだ『カメラを止めるな!』を観ていない人は閉じてしまって構わない。ネタバレしても問題ないという人はぜひ読み進めて欲しい。

 それでは、あなたが観た『カメラを止めるな!』をもう一度思い返してみよう。

【ネタバレ】『カメラを止めるな!』の構造を思い出そう

 この映画は、過去作品でもなかなかお目にかかることのできない重層的な構造を持っている。にも関わらず、一度見ただけで誰もが理解可能な分かりやすい内容になっている。

 この映画の中心には〈自主制作ゾンビ映画〉がある。しかし、物語は「〈自主制作ゾンビ映画〉を撮影しているスタッフ」というドキュメンタリー風の視点から始まる。この時点で、映画は二重の入れ子構造になっている。

 撮影隊の監督は、本物の演技を求めてヒロインがゾンビに襲われるシーンを何度も撮り直す。その数42テイク。それでもOKを出さない監督に、役者とスタッフは苛立ちを募らせる。そこに本物のゾンビが現れて襲いかる。しかし、撮影は続行される。監督は叫ぶ。

「撮影は続ける! カメラは止めない!」

 そして怒涛の37分ワンカット。ノンストップのゾンビサバイバルはクライマックスを迎える。最後に、全ては『ONE CUT OF THE DEAD』という作品であったことが提示されて映像は途切れる。そこから種明かしが始まる。

 ――1ヶ月前

 撮影隊の監督・日暮隆之は、バラエティ番組やカラオケで使われる映像素材を制作する請負の映像監督だった。そんな彼に、新たに開局するゾンビ映画専門チャンネルの企画が舞い込む。その依頼こそが、およそ30分のゾンビドラマをノーカット生中継で放送するという無茶な内容だった。

 この時点から、物語は「〈自主制作ゾンビ映画〉を撮影しているスタッフの舞台裏を覗く」という三重構造になってゆく。

  • あの37分ワンカットがどうやって撮影されたのか?
  • あの不自然な間や違和感が残る演出は一体何だったのか?
  • そもそも何が予定通りで、何がアクシデントだったのか?

 物語の前半で気になっていた部分が、後半で一気に解消されていく。そこから湧き起こる驚き、納得、関心、笑いの連続。そして最後に、感動。

 結末は潔く、後腐れなく終わる。普通の映画ならここで終わってしまっても満足するはずだ。しかし、この作品はここで終わりではなかった。

 ――エンドロール

「〈自主制作ゾンビ映画〉を撮影しているスタッフの舞台裏を覗く映画を撮影するスタッフ」が映し出される。要するに「『カメラを止めるな!』の舞台裏」である。これを「構造」に組み入れてしまって良いものだろうか?

反則でしょ? そんな事を言ったら、全ての映画がこの構造を持っているじゃないか。本編とは関係ない!

 おっしゃる通り。でもちょっと待って欲しい。そもそもこの映画はどこから始まって、どこで完結しただろうか?

『カメラを止めるな!』の着地点を思い出そう

 この映画は、劇中劇の「〈自主制作ゾンビ映画〉を撮影している撮影隊」を映し出す所から始まり、その舞台裏を描くことによって、徐々に物語構造の上層へと登っていった。私たちは最初から「ゾンビ」を「ウソ」だと知っているからこそ、「本当はどうなの?」という意識を自動的に働かせることができた。

 冒頭のゾンビ映画は手作り感満載で、映像も荒いし、手ブレしまくりで、完成度は決して高くなかった。

  • でも、それは仕込みで「本当は」違うんでしょ?
  • 敢えて低いクオリティーの映像にすることによって「本当は」自主制作感を出したんでしょ?
  • でも、その「〈ゾンビ映画〉を撮っている撮影隊」の映像にも違和感はあるし、稚拙な瞬間があったよ?
  • 本当は劇中劇の「ウソ」で、「〈ゾンビ映画〉を撮影しているスタッフ」そのものが『ONE CUT OF THE DEAD』という一つの作品でした、というオチになるじゃん。
  • でも、本当はどうなの?

 こうやって観客は「ウソ」を見せられ、「でも」と言って抗い、「ホント」を探そうとする。この「ウソ」に対する解答は先延ばしにされ、観客は物語の着地点を探そうとする。しかし、この作品における「ホント」の基準は、重層的な構造によって隠されている。

 一般的に、映画は物語の中で始まって物語の中で完結する。完成度の高い作品は「フィクションをフィクションとして感じさせないクオリティー」のパッケージであり、そのパッケージは現実の時間や空間とは切り離された状態で完全に保存される。観客は、物語が始まると結末を迎えるまで作品世界に没入するのだ。

 しかし『カメラを止めるな!』は違う。この作品は「ウソ」と「ホント」の揺さぶりによって、没入感を破壊し、観客の頭の中に冷静に事態を見届けようとする理性を残すのである。

 作品の中に残された「素人っぽさ」や「不完全さ」は、意図的にそうした物なのか本当にそうなってしまった物なのかが、観客には分からない。だから判断基準の無い観客は「突っ込む」ことができない。突っ込むことができない観客は、ただ耐えることしかできないから、耐えて、耐えて、耐えた先に、どこに着地するのかが気になってしょうがないのである。

「この映画はどうやって撮られたのか?」という謎掛けは、「〈自主制作ゾンビ映画〉をこうやって撮影しています」という風景から始まり、「『ONE CUT OF THE DEAD』はこうやって撮影されました」という枠組みを突破して、「『カメラを止めるな!』はこうして撮られた」にまで到達する。

 私たち観客は、「本当は?」を追いかけているうちに、いつの間にか物語世界(虚構)の壁を突き破って、物語外世界(現実)に着地しているのである。だから『カメラを止めるな!』の結末は物語の最後ではなく、エンドロールの最後なのだ。

 そのイメージを図式化したものが以下。

『カメラを止めるな!』の構造
(※クリックでフルサイズの画像を表示)

『カメラを止めるな!』の違和感を思い出そう

 冒頭に巻き戻って、もう一度「37分ワンカット」のシーンを思い出してみよう。この映像には違和感があった。

 作品の中には素人っぽさや不完全さが残されていた。このチープさはゾンビ映画の自主制作性ゆえなのか、それとも映画そのものが低予算で作られているための必然なのかが分からない。

 しかし、〈自主制作ゾンビ映画〉が「ウソ」であることは冒頭で暴かれる。この「最初にウソを暴露する」という所からスタートする点が非常に重要である。私たちは「ウソ」が「ウソですよ」と種明かしされる点からスタートする。だから、自動的に「本当はどうなの?」という疑心状態で映画を見ることになるのだ。

 観客は、自分だけは騙されまいとして物語に集中する。観客が疑いの目を持ったまま映画に集中するとどうなるか。映像には集中しているが、物語は信用しない、という対称性の破れが生じるのである。すると、このカメラは誰が持っていて、この映像は誰の視点で、私はいま何を見ているのだろうか、という冷静な思考が現れるのである。

『カメラを止めるな!』に集中しようとすればするほど、物語世界と現実世界の境界が曖昧になっていく。現実と虚構がオーバーレイで重なり、溶けて無くなる。すると、目の前で上映されている映像の認識に亀裂が生じ始める。

 その亀裂から漏れ出すのは、撮影現場に漂う空気や臭い、廃屋の不快感や不気味さ、砂利を踏みしめる足音、機材を持って走り回るスタッフの汗や熱気、画面には映らない人間の存在。そして、絶対にこのテイクで決めるという気迫、失敗してはならないという執念、スタッフが感じている緊張感が、伝わってくる。その「スタッフ」とは、一体誰なのか?

 違和感の正体はこれだ。

 物語世界の外は初めからそこにあったのだ。私たちは、最初から「この映画はどうやって撮られたのか」を目撃していたのである。

『カメラを止めるな!』のここが凄い

 何度も繰り返すが、この映像には「ウソ」(カッコ付きのウソは物語内の一時的な嘘である)と「ホント」(カッコ付きのホントは物語内で明かされる虚構の真実である)が入り混じっている。その判断基準は、〈自主制作ゾンビ映画〉と、「〈自主制作ゾンビ映画〉を撮影しているスタッフのドキュメンタリー」と、『ONE CUT OF THE DEAD』と、「『ONE CUT OF THE DEAD』の舞台裏」のうち、どの階層を信じるかによって全く異なる。

 そして、この映画は様々な仕掛けによって「判断基準として信じる層」をもう一つ追加してしまったのだ。映画の中に現実をブチ込んでしまったのである。

「ウソ」と「ホント」の中に、虚構と現実がミックスされ、「本当のホント」と「本当のウソ」と「ホントの嘘」と「嘘のウソ」が混在する。観客はもう「本当はこうでした」の「本当」の判断基準が分からなくなっている。作品と舞台裏が重層的に重なり過ぎており、明確にスラッシュ(/)を引くことができなくなってしまっているのだ。

 映画は、そのままの状態で大団円を迎える。「俺たちはこんな凄い映画を撮ってやったぞー!」という喚声が聞こえる。その声はどこからやってくるのであろうか?

 この構成は見事だった。劇中劇が〈自主制作ゾンビ映画〉だったからこそ、映画における「ウソ」が明確に描けていたし、映画は虚構であるという事実を最初に破壊してくれたからこそ、自分がこの映画に対して求めている「真実」とは何かを考えながら観ることができた。

 この映画の問いは「この映像はどうやって撮られたか」であり、観客の期待は「この映像はこうやって撮られました」に誘導されていた。その解答は見事に用意されていた。気がつくと、私たちは物語世界を飛び越えて現実世界のスタッフに称賛の拍手を送っていたのだった。

 現代は、物語の中で真実を語ろうとしても「ツッコミ」の入る時代である。創作物がいかに虚構であっても、政治的かつ社会的に正しい表現をしなければ簡単に炎上する時代である。そもそも、何が真実で何が嘘なのか分かりづらい時代でもある。それでも、この映画には始まりから終わりまで一貫した真実が映し出されていた。

「映画を撮るって超楽しい!」

 その熱量と執念が物語世界を侵食し、その若さと勢いが既成概念をぶっ壊した。これはもう最高にパンクであり、完璧な「自主制作」映画だ。

この映画の凄い所はこうだ。

  • 低予算の弱みを作品の強みへと転換している
  • 突っ込みどころがあるのに、突っ込めない構造になっている
  • 物語の没入感を破壊しながら、作品への興味を継続させている
  • 虚構の中の「ウソとホント」と現実の「嘘と本当」を混合して昇華している
  • 物語内世界ではなく、物語外世界へ着地する
  • そして綺麗にタイトルの意味へと帰結する

 これは間違いなく、もう一度観る価値のある映画だ。