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米原万里にしか書けなかった傑作『オリガ・モリソヴナの反語法』書評

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オリガ・モリソヴナの反語法
オリガ・モリソヴナの反語法

オリガ・モリソヴナの反語法

著者
米原万里
出版社
集英社文庫
初版
2002/10/4(単行本)

 これほど教養に満ちた小説がどれくらいあるのだろうか。

 著者の米原万里は、ロシア語の通訳者として第一線で活躍したことで知られ、海外での豊富な経験を活かして多くのエッセイを残している。私はこの作品を読むまで、通訳を生業とする者が一体どのような文体で物語を紡ぎ出すのか意識していなかった。そればかりか、この作品のタイトルや表紙からは、物語の像が見えづらいために、買ってからずっと放置していたのである。

 結論から言うと、この小説は米原万里にしか書けない傑作だった。そして、生涯忘れることのない登場人物と出会える作品でもあった。惜しむらくは、彼女にとって本作が最初で最後の「長辺小説」になってしまったこと。だからこそ、読者にとって生涯のうちに何度も読み返す「名作」たり得る一冊になった。

 今となってはすんなりと物語の世界観に入っていける書き出しの部分も、初めは馴染みの薄い異国の登場人物の名前や雰囲気が足枷となって、なかなかページをめくることができなかった。文庫版には、物語が始まる前にロシア連邦周辺とモスクワ市内の地図が載っている。その後に、主な登場人物が紹介されている。主人公は、日本人の弘世志摩(シーマ、シーマチカと呼ばれる)。その次に本のタイトルにもなっている人物、オリガ・モリソヴナ。そして、エレオノーラ・ミハイロヴナ、ミハイロフスキー大佐、と続き、カーチャ、スヴェータ、ジーナ、レオニード……と言った具合である。

 これは少々面倒な作品に手を出してしまったぞ、と思った。私は登場人物の名前を覚えるのが苦手で、それが原因でロシア文学の古典を途中で投げ出した経験があったからだ。

 舞台は1992年ソ連崩壊直後のモスクワ。そこから主人公の弘世志摩が学生時代を回想しているシーンから始まる。書き出しはこうだ。

「ああ神様! これぞ神様が与えて下さった天分でなくてなんだろう。長生きはしてみるもんだ。こんな才能はじめてお目にかかるよ! あたしゃ嬉しくて嬉しくて嬉しくて狂い死にしそうだね!」
 オリガ・モリソヴナはチャルダシュを弾いていた指先の動きを止めると、両手を頭上に掲げて天を仰いだ。

――『オリガ・モリソヴナの反語法』書き出し

 読み進めて行くと、オリガ・モリソヴナという女教師が生徒に踊りの稽古を付けている場面だということが分かる。語り手は、主人公の志摩寄りの三人称。序盤、志摩の視点からオリガ・モリソヴナのまるで魔女のような容姿や、濁声と「反語」で生徒を罵る印象的な姿が語られる。そして、彼女と同級生の友人との会話から、この女教師が只者ではないということが分かってくる。しかも、どうやら志摩たちはこの年齢不詳で派手なファッションの女教師に対して好意を抱いているようなのだ。

 学校を駆け巡る噂話や、教師にあだ名を付けて隠語で呼び合う様は、いかにも幼い生徒がやりそうなことで、彼女らの好奇心を上手く表現している。実は、著者自身が父親の赴任のために9歳から14歳までの5年間を、チェコスロバキアの首都プラハで過ごした経験の持ち主だった。彼女はエッセイの中で、ロシア語が分からないまま放り込まれた授業は何を話しているのか全く分からずに地獄だった、と語っている。その後、少しずつロシア語を覚え、帰国する頃には通訳者としての基盤のような物が出来上がっていたのだろう。その時の体験が、このような生き生きとした描写に展開されている。

 私は、第一章を読み終える頃には、すっかりこの物語の雰囲気が好きになっていた。本を読み終わった時にはそれが「感服」に変わるのだが、この時点では個性的な登場人物を魅力的に映す表現力に魅せられていた。特に、カーチャが志摩の家に遊びに来るシーンが良い。この部分で、再度読み返した時に気付いたことがある。志摩とカーチャの何気ない会話の底に流れる不気味な影だ。そこには、後に舞台の中心となる「壮大なソビエト史」の背景がくっきりと描かれていたのである。

 物語は、志摩が少女時代からずっと抱いていた疑問を解こうとするミステリーとして描かれている。行く先々で出会った人々や、同級生との再開によって少しずつオリガ・モリソヴナの謎に近づいていく。現在の出来事と過去の回想が交錯し、歴史が紐解かれていく過程は、読み応え十分で物語の世界に引き込まれる。

 志摩や同級生たちは、三十年以上経った今現在それなりの年齢になっているはずなのだが、謎解きに夢中になって少女のようにはしゃぐ様子が、学生時代の思い出と重なって微笑ましい。そんな彼女らの活躍を追っていくうちに、先の展開が気になって頁をめくる手が止まらなくなっている。

 この作品の魅力は三つある。一つ目は、先ほど挙げたように個性的な登場人物の存在感を十分に引き出す表現力。次に、圧倒的な語彙力に支えられた文章技術だ。

 通訳者は、話し手が話した言葉を外国語に変換して、言葉に表せる以上のニュアンスを含めて聞き手に伝えなければならない。そういった意味で、似たような意味であっても複数の言葉を覚える必要があるし、通俗的な表現や比喩にも精通していることを求められる。だから、ここに見られる圧倒的な語彙力は、著者が通訳という職業を通じて培ってきた引き出しの多さであり、「生きた」言葉に他ならない。物語を読んでいて、針の穴に一発で糸を通すように、的確な言葉が置かれていく快感を得ることは珍しい。そんなレベルの高い文章が、ここには書かれているのだ。

 そして三つ目が、作品の枠組みを越えて立ち上がる壮大なロシア大陸の歴史や社会情勢である。私たち読者は、この作品がフィクションでありながら、歴史的時間軸の一点を貫いて今に繋がっているという感覚を抱く。どこまでが本当で、どこからが作り話か、そんな些細な問題は気にならない。この作品には、「遠い隣国」についての想像を喚起させるだけの力が確かにあった。

 読者はこの作品を通してロシアを見る。その風景は全て著者の人生体験に基いている。だから、この小説は米原万里にしか書けないリアリティと力強さを持っている。つまり、この作品は彼女の教養によって満たされている小説なのだ。

オリガ・モリソヴナの反語法

オリガ・モリソヴナの反語法

著者
米原万里
出版社
集英社文庫
初版
2002/10/4(単行本)
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