ウェブランサー

ネタバレ『カメラを止めるな!』のここが凄い!そして似たようなおすすめ映画ある?という時に観る3本

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

『カメラを止めるな!』

 公開直後から口コミで話題の映画『カメラを止めるな!』の勢いが止まらない。

 この映画は、感想を言おうとしても全てがネタバレになってしまうので、事前に説明することが難しい。だから、人に薦める時は「とにかく面白いから見て!」というような言い方にならざるおえない。そして、この映画を観た人はまた誰かにそのことを話したくて仕方がなくなる。

 この体験は、私にある監督の作品を即座に連想させた。内田けんじ監督だ。彼は、内田けんじが作品を監督したというだけで半分ネタバレになるような強烈な作品を残している。2012年以降フィルモグラフィーが更新されていないのが惜しまれる。

 おそらく『カメラを止めるな!』を面白いと思った人は彼の作品を気に入ると思うし、内田けんじ監督の作品が好きな人は『カメラを止めるな!』を面白いと思うはずだ。どちらも事前情報一切なしで観るのがベストである。
『カメラを止めるな!』と似たような映画を探しているのなら、内田けんじ監督の『運命じゃない人』『アフタースクール』『鍵泥棒のメソッド』を順番に見ることをお薦めする。

 じゃあ『カメラを止めるな!』の何が凄いの? という部分を続けて書いていく。以降は完全にネタバレになるので、まだ『カメラを止めるな!』を観ていない人は閉じてしまって構わない。ネタバレしても問題ないという人はぜひ読み進めて欲しい。

 それでは、あなたが観た『カメラを止めるな!』をもう一度思い返してみよう。

【ネタバレ】『カメラを止めるな!』の構造を思い出そう

 この映画は、過去作品でもなかなかお目にかかることのできない重層的な構造を持っている。にも関わらず、一度見ただけで誰もが理解可能な分かりやすい内容になっている。

 この映画の中心には《自主制作ゾンビ映画》がある。しかし、物語は「《自主制作ゾンビ映画》を撮影しているスタッフ」のドキュメンタリー風の視点から始まる。この時点で、映画は二重の入れ子構造になっている。

 撮影隊の監督は、本物の演技を求めてヒロインがゾンビに襲われるシーンを何度も撮り直す。その数42テイク。それでもOKを出さない監督に、役者とスタッフは苛立ちを募らせる。そこに本物のゾンビが現れて襲いかる。しかし、撮影は続行される。監督は叫ぶ。
「撮影は続ける! カメラは止めない!」
 怒涛の37分ワンカット。ノンストップのゾンビサバイバルはクライマックスを迎える。そして最後に、全ては『ONE CUT OF THE DEAD』という作品であったことが提示されて、映像は途切れる。ここから種明かしが始まる。

 一ヶ月前――

 撮影隊の監督・日暮隆之は、バラエティ番組やカラオケで使われる映像素材を請負で作る映像監督だった。そんな彼に、新しく開局するゾンビ映画専門チャンネルの企画が舞い込む。その依頼こそが、およそ30分のゾンビドラマをノーカット生中継で放送するという無茶な内容だった。

 この時点から、物語は「《自主制作ゾンビ映画》を撮影しているスタッフの舞台裏を覗く」という三重構造になってゆく。

  • あの37分ワンカットがどうやって撮影されたのか?
  • 映像にあった不自然な間や、違和感が残る演出は一体何だったのか?
  • そもそも何が予定通りで、何がアクシデントだったのか?

 物語の前半で気になっていた部分が、後半で一気に解消されていく。そこから湧き起こる驚き、納得、関心、笑いの連続。そして最後に感動。結末は潔く、後腐れなく終わる。
 普通の映画ならここで終わってしまっても満足するはずだ。しかし、この作品はここで終わりではない。

 エンドロール――

「《自主制作ゾンビ映画》を撮影しているスタッフの舞台裏を描く映画を撮影するスタッフ」が映し出される。要するに「『カメラを止めるな!』の舞台裏」である。これを「構造」に組み入れてしまって良いものだろうか?
 反則でしょ? そんな事を言ったら、全ての映画がこの構造を持っているじゃないか。本編とは関係ない! おっしゃる通り。でもちょっと待って欲しい。

 そもそも、この映画はどこから始まって、どこで完結しただろうか?

『カメラを止めるな!』の着地点を思い出そう

 この映画は、劇中劇の「《自主制作ゾンビ映画》を撮影している撮影隊」を映し出す所から始まり、その舞台裏を描くことによって、徐々に物語構造の上層へと登っていった。観客は、最初から《ゾンビ映画》を「ウソ」だと知っているからこそ、「本当はどうなの?」という意識を自動的に働かせることができた。

 冒頭の《ゾンビ映画》は、手作り感満載で、映像も荒く、手ブレしまくりで、決して完成度は高くない。
 でも、それは仕込みで本当は違うんでしょ?
 本当は、敢えて低いクオリティーの映像にすることによって自主制作感を出したんでしょ?
 でも、その「《ゾンビ映画》を撮っている撮影隊」の映像にも違和感はあるし、稚拙な瞬間があったよ?
 本当は、これは劇中劇の「ウソ」で、「《ゾンビ映画》を撮影しているスタッフ」そのものが『ONE CUT OF THE DEAD』という一つの作品でした、というオチになるじゃん。
 でも、本当はどうなの?

 こうやって観客は「ウソ」を見せられ、「でも」と言って、「ホント」を探す。この「ウソ」に対する解答は先延ばしにされ、観客は物語の着地点を探そうとする。しかし、この作品における「ホント」の基準は、重層的な構造によって隠されている。

 一般的に、映画は物語の中で始まって物語の中で完結する。完成度の高い作品は「フィクションをフィクションと感じさせないクオリティー」のパッケージであり、そのパッケージは現実の時間や空間とは切り離された状態で完全に保存される。観客は、物語が始まると結末を迎えるまで作品世界に没入する。

 しかし『カメラを止めるな!』は違う。この作品は「ウソ」と「ホント」の揺さぶりによって、没入感を破壊し、観客の頭の中に冷静に事態を見届けようとする理性を残すのだ。

 作品の中に残された素人っぽさや不完全さは、意図的にそうした物なのか、本当にそうなってしまった物なのかが観客には分からない。だから、判断基準の無い観客は「突っ込む」ことができない。突っ込むことができない観客は、ただ耐えることしかできないから、耐えて、耐えて、耐えた先に、どこに着地するのかが気になってしょうがないのである。

「この映画はどうやって撮られたのか?」という謎掛けは、「《自主制作ゾンビ映画》をこうやって撮影しています」という風景から始まり、「『ONE CUT OF THE DEAD』はこうやって撮影されました」という枠組みを突破して、「『カメラを止めるな!』はこうして撮られた」にまで到達する。

 私たち観客は、「本当は?」を追いかけているうちに、いつの間にか物語世界(虚構)の壁を突き破って、物語外世界(現実)に着地しているのである。だから『カメラを止めるな!』の結末は物語の最後ではなく、エンドロールの最後なのだ。

 そのイメージを図式化したものが以下。

『カメラを止めるな!』の構造

(※クリックでフルサイズの画像を表示)

『カメラを止めるな!』の違和感を思い出そう

 冒頭に巻き戻って、もう一度「37分ワンカット」のシーンを思い出してみよう。この映像には違和感があった。

 作品の中には素人っぽさや不完全さが残されていた。このチープさはゾンビ映画の自主制作性ゆえなのか、それとも映画そのものが低予算で作られているための必然なのかが分からない。

 しかし、《自主制作ゾンビ映画》が「ウソ」であることは冒頭で暴かれる。この「最初にウソを暴露する」という所からスタートする点が非常に重要である。私たちは、「ウソ」が「ウソですよ」と種明かしされる点からスタートする。だから、自動的に「本当はどうなの?」という疑心状態で映画を見ることになる。

 観客は、自分だけは騙されまいとして物語に集中する。観客が疑いの目を持ったまま映画に集中するとどうなるか。映像には集中しているが、物語は信用しない、という対称性の破れが生じるのである。すると、このカメラは誰が持っていて、この映像は誰の視点で、私は何を見ているのか、といった冷静な思考が現れる。
 物語世界を理解しようとすればするほど、物語世界と現実世界との境界が曖昧になっていく。現実と虚構がオーバーレイで重なって溶け合う。すると、目の前で上映されている映像の認識に亀裂が生じる。

 その亀裂から漏れ出すのは、撮影現場に漂う空気、湿気や温度、臭い、砂利を踏みしめる足音、機材を持って走り回るスタッフの汗、画面には映らない人間の存在。そして、絶対にこのテイクで決めるという気迫、失敗してはならないという執念、スタッフが感じている緊張感が伝わってくる。そのスタッフとは、一体誰なのか?

 違和感の正体はこれだ。

 物語世界の外は初めからそこにあったのだ。私たちは、最初から「この映画はどうやって撮られたのか」を目撃していたのである。

『カメラを止めるな!』のここが凄い

 何度も繰り返すが、この映像には「ウソ」(カッコ付きのウソは物語内の一時的な嘘である)と「ホント」(カッコ付きのホントは物語内で明かされる虚構の真実である)が入り混じっている。その判断基準は、《自主制作ゾンビ映画》と、「《自主制作ゾンビ映画》を撮影しているスタッフのドキュメンタリー」と、『ONE CUT OF THE DEAD』と、「『ONE CUT OF THE DEAD』の舞台裏」のうち、どの階層を信じるかによって全く異なる。
 そして、この映画は様々な仕掛けによって「判断基準として信じる層」をもう一つ追加してしまった。映画の中に現実をブチ込んでしまったのである。

「ウソ」と「ホント」の中に、虚構と現実がミックスされ、「本当のホント」と「本当のウソ」と「ホントの嘘」と「嘘のウソ」が混在する。観客はもう「本当はこうでした」の「本当」の判断基準が分からなくなってしまった。作品と舞台裏が重層的に重なり過ぎて、明確にスラッシュ〈/〉を引くことができなくなってしまったのだ。
 そのままの状態で映画は大団円を迎える。「俺たちはこんな凄い映画を撮ってやったぞー!」という声が聞こえる。その声はどこから響いてくるのだろうか?

 この構成は見事だった。劇中劇が《自主制作ゾンビ映画》だったからこそ、映画における「ウソ」が明確に描けていたし、映画が虚構であるという事実を最初に破壊してくれたからこそ、自分がこの映画に対して求めている「真実」とは何かを考えながら観ることができた。

 この映画の問いは「この映像はどうやって撮られたか」であり、観客が求めていた解答は「俺たちはこうやって撮った」だ。しかし、気がつくと私たちは、物語世界を飛び越えて現実世界のスタッフ全員に称賛の拍手を送っていたのだった。

 今は、物語の中で真実を語ろうとしても突っ込みの入る時代である。いかに創作物が虚構であっても、政治的・社会的に正しい表現をしなければ炎上する時代である。そもそも、何が真実で何が嘘なのか分かりづらい時代でもある。
 それでも、この映画には始まりから終わりまでずっと一貫した真実が映し出されていた。

「映画を撮るって超楽しい!」

 その熱量と執念が物語世界を侵食し、その若さと勢いが既成概念をぶっ壊した。これはもう最高にパンクであり、完璧な「自主制作」映画だ。

この映画の凄い所はこうだ。

  • 低予算の弱みを作品の強みへと転換している
  • 突っ込みどころがあるのに、突っ込めない構造になっている
  • 物語の没入感を破壊しながら、作品への興味を継続させている
  • 虚構の中の「ウソとホント」と現実の「嘘と本当」を混合して昇華している
  • 物語内世界ではなく、物語外世界へ着地する
  • そして綺麗にタイトルの意味へと帰結する

これは間違いなく、もう一度観る価値のある映画だ。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSをフォロー
アーカイブ
カテゴリー
タグで絞り込む
ソーシャルブックマーク